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いつか近藤有己に聞いたこと。
それは「いずれ達人になりたい」というものだった。
トップの格闘家たちは誰だって達人になりたいという願望を持つ。しかし、その修練の仕方もわからないし、実際の試合で負けるのが怖い。したがって、結局は目先の試合に勝つための技中心の練習が多くなってしまう。次第に技を極めれば達人になっていくだろう…と思うようになる。
話は変わるが、実際にお互いが目隠しをして闘ったら、どんなことになるのだろうかと思うとゾクゾクする。達人に近かったら、目隠しをしても、気配で相手を仕留めてしまうかもしれないな、とも思う。
馬鹿げた話だと、笑う人も多いだろう。
しかし、江戸時代の剣道の道場ではそういう練習があった。闇稽古というもので、闇夜に真っ暗な道場で稽古をしたのだ。平たくいえば、相手の息づかいや気配を感じて倒す修練だ。
また、確か明治の剣豪・山田次郎吉という人の談話だと思ったが、こんな第六感の話が出てくる。師匠の達人・榊原鍵吉(直心影流)と話していたときのことだ。榊原が「もうすぐ誰々が来るよ」という。どうして分かるのかと聞くと、見えるのだという。山田は半信半疑になった。塀があるので外の景色は見えない。しかし「塀の向うに姿を見る」ことができるという。半信半疑になるのも無理もない。まさかと思っていたら、まもなく、その人がやってきた。約束したわけではなく、近くにきたため立ち寄ろうとやってきたのだった。おおよそ、そんな話だった。
達人というのは、そういう超人的な能力を持っていたのかもしれない。また剣豪になぜ達人が多いのかというと、それは剣を持って闘うからだ。剣での闘いの先に見えるのは死。死に直面することで胆力が養われるが、胆力以外に、第六感的な能力が日々の修練で生まれてくるのではないかと思うのだ。
いわゆる退化してしまったとされる第六感。それが甦ってくる。それが達人の境地ではないか。だから、ちょっとした気配で危険を察知できる。
ちょっと話が横道にそれてしまった。
近藤はいま達人になるために、どのへんのところにいるんだろうか…。
菊田戦を見てみると、近藤は技というよりも体で感じながら無理なく闘っていたように思えた。菊田が試合後、マウントを返されたことに触れて「不思議です」と語っていたのも、おそらく達人のようなものに近づいてきたという証ではないかと思うしかない。
ここでは近藤に直接、達人の道のりについて触れてもらおう。
「まだまだ甘っちょろいですよ。いまの状態? 達人になるためのスタートラインに立つための、準備段階かもしれませんね。たとえば遠足で目的地に行くまでにいろんな準備をするじゃないですか。これを持っていって、これは置いておこうという。その準備段階だと思います。ようやくスタートラインに立ったときは、現在の格闘技業界で敵なしになっていると思うんです」
今回の5・18横浜文体で菊田と闘った近藤は、達人へ向かうために、ひとつだけ嬉しいことがあった。
それは3Rのことだった。菊田が飛び蹴りを出してきて、失敗した。近藤が手で捌いたからだ。
しかし、それはこちらの思い違い。近藤は「あれは手で捌いたのではない」という。
「これはあとでビデオで見て、自分が無意識にやっていることに気づいたんですが、体を少しズラしてキレイにかわしているんです。手は補助的なものでした」
近藤の武器は飛び蹴りだ。その蹴りを封印して菊田と闘ったことは、我々にとって関心度の高いものだった。
ところが近藤はそんなことはどうでもよく、体を無意識のうちにかわしていたことを喜ぶのである。
「菊田戦というのは、強くなっていくための練習の過程というものがあって、その過程に自信が持てた試合だったと思う」
少々、わかり辛いかもしれないが、近藤の練習は人にはなかなか理解できるものではない。強くなるなら、徹底的に技の入り方などのテクニックを覚えるために出稽古に行ったほうが得策だと普通なら思う。
ところが近藤が重きを置いている練習はヨーガなどの、通常ならサブ的要素を持つ「心と体」の修練だからだ。
「僕の練習を見ている人は理解に苦しむと思うんです。先輩レスラーや仲間も首を傾げると思う。でも、自分が信じている考え方で強くなっていこうと思い、菊田戦ではあそこまで対応できたんで、やっぱり間違っていなかったんだという気がしますね」
近藤の自信。それはたどり着くまでの道のりが遠いと分かっていながら、着実にやってきた生き方の確かさでもある。
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