ジョン・ルイス道場はラスベガスの街の端っこに位置している。その街で8月中旬からたった一人で過ごす。心細かった。しかし、内心、ホッとしないでもない。
 知っている人間は誰もいない。だから周りを気にせず、のびのびと練習することができると思ったのだ。
 謙吾は27歳になった。
 5年前のバス・ルッテンとのデビュー戦(98年9月)はいまだに語り草になっている。当時、謙吾は兄と慕う高橋義生と沼田ジムにボクシングを習いに行っていた。沼田義明会長はボクサー志望でもない謙吾にまったく興味を示していなかったが、何度も倒されながらルッテンに向かってパンチを繰り出していく謙吾をテレビで見て「こいつはすげえ」と感嘆した。
新日本の上井文彦営業部長(当時)も果敢に向かっていく謙吾の根性に雷に打たれたような衝撃を受けた。その試合の数日後、私は新日本の会場で上井氏に呼び止められた。上井氏は情熱家らしい口調で「謙吾って凄いねえ。謙吾、欲しいですねえ!」と目を輝かせたのを覚えている。
それほどのインパクトを残したということだ。しかし、最初にインパクトがあったばっかりに、謙吾は周囲の期待の中でどんどん自滅していった。


肉体は船木のもとでバリバリに作られていったが、テクニックを覚えていくにつれて、頭でっかちになっていった。謙吾には、まず勝たなければならないという気持ちが先立っていた。真剣勝負をしているのだから、勝敗は重要だ。勝たなければ意味がない。凄い試合、いい試合をファンは望んでいることは分かっているのに、どうしても勝つということが先にたったのだ。
おそらく謙吾も気づいていることだろうと思いながら、あることを聞いてみた。
「たとえば算数を解くためにいろいろな公式を覚える。覚えた公式を使えば、問題は解くことができるから。試合も算数のように公式に当てはめようとして、小じんまりとしているんじゃないのか。なかなか自分の覚えた公式に合わないから、当てはめようとしているうちに試合が膠着してしまう。期待されている分、公式に当てはめて確実に勝たなきゃならないと思っているんじゃない?」
 そうたたみかけると謙吾は頷いた。
「それは言えます。その流れになっていた。でも、俺は期待される星の下に生まれちゃったんだから、しょうがないです。勝たなきゃいけないとか、守りに入っちゃダメなことは分かっているんですけどね」

 かつて謙吾を絶賛した上井氏からオファーがかかって、新日本5・2東京ドームでは、猪木の秘蔵っ子、LYOTOと闘った。
 しかし、周囲の期待を一身に背負った謙吾はまたしても勝つ公式を探して試合を小さくさせてしまった。
「あの試合は自分がステップするチャンスだった。チャンスって、そんなにめぐってくるものじゃないけど、俺の場合はけっこう恵まれている。だけど、そこで自分らしさを発揮できないのが悔しい」
 苦渋のLYOTO戦は誰が見てもダメな試合だった。勝ちに行こうとしているのかもわからない。相手の攻撃を防ぐことで精一杯という印象を与えた。謙吾は自己嫌悪に陥った。家に引きこもりがちになった。人に会うことが恥ずかしくてたまらなかったのだ。
「あの夜、母ちゃんから電話が入ったんですよ。この業界に入って、初めて母ちゃんから電話をもらって励まされたんです。30分くらい話しました。俺がいろんな期待を受けながら、ずっとやってきているんで、それを母ちゃんはわかっていて…。もう、俺は半泣き状態でした」

 その後、会場で謙吾を見かけたが、謙吾は目をそむけるなどして話したがらなかった。それほどの落ち込みようだったのだ。
 8月14日、ラスベガスに行く。
 ジョン・ルイス道場に住み込むことになっている。帰国の期限は決めていない。刺激が薄れてきたらロスにも行くつもりだし、いろんなところにも行ってみたいと思っている。
「日本にいると友達がいるし、何かといろんな人がいて助けてくれる。誘惑も多い。一人ぼっちのほうが、いまの俺にはいい。バクチ?僕はバクチの才能がないですよ。だからラスベガスにいたって、カジノに夢中になる要素はない。そうですね、毎日、ロードワークする。カジノの前を通って25セント硬貨1枚だけスロットマシンに入れる。それで運良く儲かったら、さっさとこの業界から去れるかな。あはは」
 アメリカでは、たった1枚の25セント硬貨が莫大なお金を生むことだってある。いまの謙吾はちっぽけな25セント硬貨にすぎない。だが、夢と青春がいっぱい詰まった25セント硬貨でもある。