11・30両国国技館の目玉は近藤有己と菊田早苗の対決である。
@菊田早苗が近藤有己をどう攻めるのか。
A近藤有己が菊田早苗をどう攻めるのか。
 この2種類の言い回し。
感覚的にしっくりくるのはどっちだろうか。そう思った時、私には@がしっくりときてしまった。
その心理を分析すると、かなり私の心の中で近藤という存在が大きくなっており、その近藤をどんな風に攻めればいいのだろうと思うようになっているのに気づくのだ。
「前回やってみて分からなかった事が見えてきた。VS近藤で自分に足りなかった事は5〜6ポイントある。前回は、力は出し尽くしたが、技術は2割くらいしか出させてもらえなかった。今度は100%出るようにしたい」
 調印式で菊田はそう言った。
 技術は2割くらいしか出させてもらえなかったと言ったが、それは謙遜として、前回の試合をやって、菊田から自信が消失していったのは事実だろう。
だが、そのおかげで危機感を持ち、さらに進化していった菊田早苗がいる。その練習の激しさを裏付けることになるかどうかは分からないが、菊田の顔が、おそらく練習で痩せたのだろうか、なかなか凛々しい。
「前回はとにかく苦しかった。その直後で、次にすぐというのは難しかったが、こうして時間がたって、気持ち的にも肉体的にも調子がいいので、やるのは今しかない、もちろん自信があるからやるが、ダメでも仕方ないと開き直っている」
 自信家の菊田らしからぬコメント。このコメントを聞いた私の記者仲間が「自信がなさそうだね」と耳打ちしたほどだった。
 菊田は前回の試合の中で、テクニックという既成概念以外の得体の知れない何かが近藤を形作っているのではないかと感じたはずだ。


 しかし、それが何であるのかが見えてこない。だいたい近藤自身も、言葉でどう説明していいかがわからないのだから、菊田が説明しようにも…。
「近藤は強いのか弱いのかわからない不思議な力がある」と、かつて船木が話していたことがあるが、おそらく船木もこれまで経験したことのないタイプとして捉えていたと思う。
 ちょうど鼓のように強い相手には強くなり、弱い相手と闘うときはそれなりに闘ってしまうのが近藤なのだ。
 まだ闘ってもいないのに、さも近藤有己が勝ったかのような文章になるのを警戒しつつ、近藤とは何かをもう一度考えてみたい。
 近藤は小さい頃から少林寺拳法を学んでいた。少林寺拳法というのは、非常に道徳的な思想を持っており、宗教的な組織である。さまざまな理論化された拳法のテクニックとともに人間教育に重点をおく。
 ここに子供を預けたら安心だという親も多いくらいに「ゆったりとした人間」が育成されていく。もう4年ほど前、少林寺の本を書くために香川県多度津町にある少林寺の本部に行った。この時は驚いた。
 この本部には武道専門学校が併設されており、ここを卒業すると指導者として巣立っていくわけだが、その教育がゆき届いており、こういうところで教育を受けた指導者のところで武道を習わせれば子供は真っ直ぐに育つんだろうなと思ったものだった。
 近藤は少林寺拳法をそういう指導者に教わってきたのだと思う。だから素直だというわけではないが、近藤の素晴らしさというのはいいものも悪いものもすべて受け入れてしまう素直さがある。すべてを受け入れられるからこそ、善も悪も包括して巨大化していった結果、それが得体の知れない器にしてしまっているのではないだろうか。そして、そのベースは少林寺拳法にあるのではないかと思えてならない。
 さて、今回の菊田vs近藤戦は最終的なパンクラスの頂上決戦である。なぜなら2人ともが決着をつけようという気持ちが強く、パンクラスは次の展開に力を注いでいかなければならないことを感じているからだ。
 いまパンクラスは大きく動いている最中だ。

 このコーナーの総タイトルを「モデレーター」としているが、この意味は何度も説明しているようにプロレスと格闘技の司令塔の役割を果たしていくということ。
 11・30両国では元極真全日本王者の数見肇が(演武だが)参加する。数見は極真から離れて独立したが、その第一歩がパンクラス。これは重要なポイントだ。
今後、数見は総合にも挑戦していくのではないだろうか。そのスタートでパンクラスを選んだのは、数見がパンクラスをモデレーターとして認知しているということでもある。またパンクラスは今後、ヘビー級を育てていくのが課題だが、柔道界からもパンクラスネットワークへの加入があったばかりだ。
 11・30はパンクラスが大きく羽ばたくための記念日になりそうだ。