|
「ひと言で言えば、アホだったんですよ」
と、梅木良則レフリーは昔を振り返って笑います。
現在、パンクラス公認レフェリー・P's LABメインインストラクターとして活躍する梅木レフリーは、パンクラスの記念すべき第1回入門テストに合格してこの世界に飛び込みました。
ここ何年かは、パンクラスのみならず、DEEPやZST、K-1、全日本キックボクシングなど、10を越える大会でレフェリーとして幅広く活躍しています。明るいキャラクターだけれど、いったんリングに上がれば、冷静な試合さばきが印象的です。今では、どこかで格闘技の大会があれば、梅木レフェリーを見ないことはないと言ってもいいほどでしょう。
梅木レフェリーは、75年7月12日、千葉県に生まれました。いつも元気で、勉強はあまり好きじゃない。塾に行くのは、友達と会えるから。ちょっとお調子者だけど、憎めない。無邪気な、どこにでもいそうな明るい子どもでした。
そんな梅木少年がプロレスに出会ったのは、高校に入ってからのこと。ボクシング観戦が好きだった梅木少年は、「格闘技世界一決定戦」(91年12月、両国国技館)の高田延彦VSトレバー・バービック戦を見に行きました。
バービックは81年に全米ヘビー級タイトルを獲得。86年にはWBC世界ヘビー級王者に。62戦55勝(33KO)11敗1分という成績を誇る選手です。ボクシング少年なら、見ないわけにはいきません。
意気込んで見に行った試合は、なんとバービックの負け。それも、1R戦意喪失…想像もしていなかった衝撃の結末でした。
翌92年には、梅木少年をさらにプロレスの世界に引き込む試合がおこなわれます。藤原組の「獅子王伝説 PART.1」(4月19日、東京体育館)。この大会で、ロベルト・デュランと船木誠勝が闘ったのです。
デュランと言えば「石の拳」と呼ばれた怪物ボクサー。デュランなら、プロレスラーに負けることはないだろう。いや、負けるはずがない。ところが、デュランまでもが敗れ去ったのです。
「プロレスラーって強いんだ…」
以来、梅木少年はプロレスファンに宗旨替え。プロレスラーに憧れを抱くようになりました。特に藤原組の寝技に夢中でした。
とは言っても、プロレスラーになろうと思っていたわけではありません。子どものころからの夢は小学校の先生だったからです。勉強はあまりしなかったけれど、なぜかなれるものだと信じていました。
梅木少年がパンクラスの第1回入門テスト(93年)を受けたのは、受験を控えた高校3年生の時でした。身長制限にひっかからないからと、冗談半分で送った書類選考。それまで、新聞配達と自己流ウェイトしかしたことがなかったのに、合格してしまいます。
実地試験は夏休みにおこなわれることになりました。高3の夏休みといえば、受験生にとって一番大切な時期です。でも
「船木選手や鈴木選手が生で見られる」
どうせ受かるわけがないからと、軽い気持ちで横浜へ。
試験の内容は厳しいものでした。でも、かっこ悪いから、途中脱落だけはしたくない。倒れそうになりながら、なんとか全てのテストをクリア。
「とりあえず記念になったからいいや、という感じでしたね。なんたって第1回でしたし。まだかな、予備校に遅れちゃうな〜と思いながら、発表を待っていました」
すると「7番」が呼ばれました。
「えっオレ?」
なんと、合格してしまったのです。
家に帰るなり、梅木少年は宣言しました。
「俺、プロレスラーになるから」
「えっ!?」
あまりの驚きに絶句するお母さん。受かるとは思っていなかったので、何も話していなかったのです。でも、お父さんは「いいんじゃないか。やりたいなら、やってみれば」と言ってくれました。
リングに立った自分は、どんな感じだろう。勉強から解放された嬉しさ、憧れの存在に近づける喜び。今ならなんでも出来そうな気がして、有頂天でした。こうして梅木少年は、自習時間に1人ベランダで腕立て伏せをする名物生徒として3年生後半を送ったのでした。
94年春、練習生生活が始まりました。憧れのレスラーへの第一歩です。
でも、スポーツの経験がほとんどなかった梅木さんにとって、いきなりプロに混じっての練習は、想像をはるかに越えるものでした。プロテインが100%吸収されないくらい、練習をしては吐いてしまう毎日。
でも、練習よりももっときつかったのは、体育会系の雰囲気でした。上下関係や言葉遣い、合宿所での生活態度、全てが初めての経験です。何を言われても先輩を立てなくてはと思っているのに、自分がないと叱られる。そんなつもりはないのに、なめた態度だと叱られる。どんな場面でどういう態度を取ればいいのか分からず、いつもビクビクしていました。練習が終わったあとの雑用の時だけが、憩いの時間だったのです。
それでも、梅木さんは、辞めようとは思いませんでした。さんざん地元で「俺プロレスラーになるから! 試合見にきてよ」と言ってしまった手前、途中で逃げ帰ることだけはできなかったのです。
ところが、95年の夏、練習中のケガで1ヵ月の入院を余儀なくされることに。パンクラスから、選手としてリングに上げることはできないと宣告されます。
デビューもしないで引退? まだ20歳なのに。ここまでやってきたのに…。悔しくて悔しくて、布団をかぶって泣きました。でもなぜか、無理にでも続けようという考えは浮かばなかったのです。
「今後はパンクラスで仕事するから、ヨロシクね」
みんなにそう伝えた時、渋谷修身選手だけは「本当にそれでいいんですか」と言ってくれました。
渋谷選手にしてみれば、梅木さんは、入門テストの時から一緒に頑張ってきた仲間であり、一番身近なライバルでもありました。せっかく受かって、ここまでやってきたのに、どうしてそんなにアッサリ辞めてしまえるんだ? お前のプロレスラーになりたい気持ちは、その程度のものだったのか? 渋谷選手はそう言いたかったのでしょう。
でも、その時の梅木さんには、その言葉の意味が分かりませんでした。
「本当にアホだったと思います。でも、今考えてみても、あの頃の自分は、どのくらいレスラーになりたかったのか、よく分からないんですよ。辰吉丈一郎のように、石にかじりついてでも続けてやるという情熱がなかったんでしょうね。それも、今思えば、なんですけど」
カリスマボクサーを倒し、華麗な関節技を操るプロレスラーに憧れて飛び込んだ世界。でも、憧れだけでした。どうしてレスラーになりたいのか、どんなレスラーになりたいのか、確固たるものがないまま、ここまで来てしまったのです。
「もう、全てが大反省です。ホントに何も分かってなかった。今考えてみれば、先輩にいつも言われていたように、あのころの俺には“自分”というものがなかったんだと思います」
一度も選手としてリングに上がることのなく、梅木さんはレフェリーに転向することになりました。
それから9年後の04年7月4日、『ZST〜BATTLE HAZARD 01〜』。
リングには、近藤有己選手の青いスパッツを身につけた梅木レフリーが立っていました。レフリーとしてではなく、初めて選手としてリングに上がったのです。綱川“DOCTOR”慎一郎選手を相手に、1分31秒、ヒールホールドで見事1本勝ち!
でも、意外なことに、嬉しさはありませんでした。最初にわいてきたのは
「申し訳ないな…」
という気持ちでした。
誰に、何に対して?
そう考えた時、自分は「競技者」ではなかったのだ、と気づいたのです。あのころの自分は、リングに憧れてはいたけれど、ここに立つべき人間ではなかった。だから9年前のあの時、すぐに辞めますと言えたんだ。
入門テストに受かった時も、そうだった。子どものころから先生になりたいと思っていたはずなのに、あんなにアッサリ気が変わってしまった。勉強だって、そんなにしなかった。自分は、本当に心から強く先生になりたいと思っていなかったんじゃないだろうか。自分のことなのに、本当は何もわかっていなかったんだ。
心の奥底にくすぶっていた思いは、霧が晴れるようにきれいに消えていきました。選手という存在への憧れも未練も、全て。
レフェリーになって8年になろうとしていました。でも、この日こそが、レフェリーとしての本当のスタートだったのかも知れません。
(続く)
|