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去る7月のネオブラッド・トーナメント決勝戦は、近年にない盛り上がりを見せました。パンクラスismの川村亮選手がみごと優勝を飾ったからです。
振り返れば、パンクラスismの選手がネオブラッドで優勝するのは7年ぶりのこと。他団体に門戸を広げて、パンクラスの選手が優勝しにくくなっているとはいえ、ファンにとっては長い暗黒時代でした。まさに、みんなが待っていた優勝だったのです。
「ismの新星」川村選手は、1981年6月29日、岐阜県に生まれました。お兄さんと妹さんにはさまれた、3人兄妹のまん中っ子。
今の姿からは想像できませんが、小さいころは身体の弱い子でした。1歳ごろ原因不明の病気でお腹がパンパンにふくれ、死にかけたこともあります。しかし、奇跡的に回復・退院。このことがあって、ご両親は勉強よりも、とにかく身体が丈夫になることが一番と考えるようになりました。川村少年が家にいると「外で遊びなさい」と叱られるほどだったそうです。
お母さんは、いつも大きなお弁当を持たせて送り出してくれました。なんと小学校2年生からはプロテインも飲ませていたというから驚きです。こうして、川村少年は近所の子どもたちと一緒に野球をし、山や川を走りまわり、みるみる元気な「野生児」になりました。
野球が好きだった川村少年は、プロレス少年でもありました。毎週テレビにかじりつき、幼稚園にプロレス百科を持って行くほど。特にアントニオ猪木選手のファンで、猪木選手が初めて長州力選手に負けた時には泣いてしまうくらいの熱中ぶりでした。
川村少年の心をとらえたプロレスの魅力は「かっこよさ」。特に肉体の強さ、かっこよさにひきつけられました。筋肉の盛り上がった胸、太い腕、広い背中…。常人を越えた肉体を持つ男たちが繰り広げる闘いは、細かった川村少年の憧れでした。
パンクラスが旗揚げされたのは、川村少年が12歳の時。プロレス雑誌で見たパンクラスの選手たちの肉体は、それまでのプロレスラーとは全く違っていました。まさに衝撃。こんなにかっこいい人たちがいるんだ…。
「パンクラスには、何かむき出しのものを感じたんです。試合も肉体も、自分たちの限界に挑戦しているというか…ギリギリな雰囲気があって、そこに惹かれたんだと思います」
確かに、旗揚げ当時のパンクラスは、少ないメンバーで興行をしており、しかもエースが必ずしも勝つわけではない。まさにギリギリの状態でした。そういう雰囲気を川村少年は敏感に感じ取り、パンクラスに引き込まれていきました。
でもそのころは、川村少年にとってプロレスは「憧れの対象」であり、「自分がなる」ものではありませんでした。
初めてパンクラス入りを意識したのは、高校2年になってから。ウェイトを始めると、細かった身体に筋肉がついてきたのです。パンクラスの肉体改造法を参考にして食事も変えてみると、どんどん身体が変わってきました。
「あれ? もしかして、イケるんじゃないか?」
とは言え、まだはっきり「パンクラスに入りたい」という気持ちが固まっていたわけではありませんでした。自分で自分の気持ちがわからない。こんなあいまいな気持ちで、大好きなパンクラスの門はたたけない。
「そうだ、パンクラスの肉体作りは、アメフトをモデルにしている。大学でアメフトをやってみよう。4年間やって、その間にパンクラスに入りたいという気持ちがはっきりしたら、パンクラスに行こう」
パンクラスにアメフト出身の選手がいなかったということも、大学進学の決め手になりました。神奈川大学に決めたのは、パンクラスが横浜にあるからでした。
入ってみると、アメフトの練習は想像を越えた厳しいものでした。
「もう、ものすごい練習。はっきり言ってムチャクチャですよ」
通常の練習のあとに、ウェイトを2時間、そして走る。800mダッシュ×4、400m×8、200m×10、100m×12、などという練習を毎日やっていたのです。おかげで、基礎体力には大きな自信がつきました。
また、アメフトは、詳細に相手の研究をします。さまざまな視点から分析して表にし、ディスカッションする。激しい肉体のぶつかり合いからはほど遠いこういった作業や、チーム運営の難しさから、精神的にも格段に鍛えられました。
こうして4年間を終えた時、心は決まっていました。
「自分はパンクラスに入る」
ご両親も反対しませんでした。「お前は、そう言うと思っていたよ」と。幼いころを思えば、こんなに大きく丈夫に育っただけで幸せなこと。思い切り好きなことをやらせてあげたかったのでしょう。
アメフトで、企業やアメリカの大学からも誘いがありましたが、川村選手はすべて断りました。就職活動も一切しない。資格も取らない。レスリング経験なんかなくたって関係ない。「いかに強く思っているか」が大切なんだ。自分はパンクラシストになれる、いや、なる男なんだ。4年かかりましたが、その分だけパンクラスへの思いは誰よりも強くなったのです。
逃げ道を作らないという豪快さは、ファイトスタイルにも現れています。
パンクラスデビュー前の05年7月27日、川村選手はDEMOLITIONに出場しましたが、なんと1発目のパンチで拳を骨折。それでも最後まで闘い抜き、判定勝ちをもぎ取りました。倒されてもすぐに立つ、骨折しようが決してあきらめない姿は、見る者に大きなインパクトを残しました。
「アメフトでは倒れたら終わりですから。たとえ倒されても、誰よりも早く立ちたい。タックルされるのは、相手に屈しているようでイヤなんです」
スタンドで真っ向から相手に向かっていく闘い方も印象的です。打撃が好きなのは、グラウンドより単純で見やすいから。より多くの人に見てもらうには、寝るより立っていた方がいい。
「小さい頃から目立ちたがりだったんですよ。自分が好きなんです(笑)」
さて、川村選手は、9月16日のディファ有明大会で、ダニエル・アカーシオ選手と闘います。これまで5戦していますが、同じ相手と2度ずつ闘っているので、今度は全く新しい相手です。しかも『PRIDE武士道』で三崎和雄や高瀬大樹といった日本人トップ選手を粉砕してきた強豪とあれば、相手に不足はありません。
「外国人選手と組んでもらえてありがたいです。強い選手なので、それだけ注目されますし。怖いと言うより楽しみです。自分でも見たことのない自分が出てくるかも知れないですから」
パンクラスは、川村選手にとって大切な表現の場です。いかに人を熱くさせ、自分を見に来たのではない人も、いかに振り向かせるか。どんなことでもいい、何かを感じさせるような試合がしたい。それぐらいのエネルギーを出していかなければ、意味がない。これは、はからずもismが理想としているところでもあります。
デビュー戦は、お母さんから厳しくダメ出しされてしまいました。「全然面白くなかった。スカッとしないよ。1回負ければいいのに。負けた姿をさらさないとわからない」と言われたそうです。さすが、小2からプロテインを飲ませるだけはあります。
もちろん勝つに越したことはないけれど、それだけが全てじゃない。何が一番大切なことなのか。身体のことを一番心配してくれたお母さんの言葉は、深く心に響きます。
パンクラスが他団体選手に門戸を開き、興行の場というニュアンスが強くなっていくのは、世の流れで仕方ないことなのでしょう。さまざまな選手が次々に参戦してくる中、所属選手としての矜持を保っていくことは、ますます難しくなっていくのかも知れません。でもやはり、ファンが求めているのは、リングで強い光を放ち、たとえ負けたとしても、その存在が忘れられなくなるようなism選手なのです。
「落とそうと思えば、ミドルでもできますけど、僕はやりません。もっと身体を大きくしたいし、とにかく人と違っていたい。でかく、速く、重く、強く。ヘビー級や無差別級でも試合できるようになりたいです」
もっと大きく、かっこよく。それが、川村選手が憧れ続けてきたプロレスラー像であり、パンクラシストなのです。負けることを恐れず、思い切り闘う。そうすれば、「ism=川村亮」と言われる日は遠くないかも知れません。
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