1992年12月21日。藤原組は解散した。12月18日の全スタッフ・選手による定例ミーティングで藤原組長と船木・鈴木・冨宅の意見が対立し、21日に行われた再度のミーティングでもやはり意見は対立。藤原組長が解散を宣言したと報道されている。当時のスポンサー企業のプロレス事業からの撤退を察知した藤原組長が、一致団結してこれからの新路線を呼び掛けたが、その溝はどうしようもなく解散となった。この時点で彼らには新しい団体を作るための準備は何もなかった。設立するための資金はおろか、その方法さえまったく知らなかった。あるのはその強い意志だけであった。彼らにとってこの解散という出来事はまさに急転直下の出来事だったのである。

解散後、船木は柳澤、鈴木は稲垣、冨宅は國奥を預かり、高橋は一人千葉の実家に戻った。それぞれがトレーニングセンターや公園、川岸等で練習を行った(高橋のみ古巣の日体大レスリング部での練習)。そして1993年1月31日、第2回トーワ杯カラテ・ジャパン・オープントーナメントに柳澤、稲垣が出場し健闘する。その後は練習と団体設立に向けての準備を進めた。それはけっして簡単な道程ではなかったが、その情熱が失われることはなかった。2月には船木・鈴木の両名がアメリカに渡り、カール・ゴッチ氏宅を訪ねる。この時ゴッチ氏によって団体名「パンクラス」が名付けられた。また、ウェイン・シャムロック宅も訪ね参戦を呼びかけた。彼は選手としてだけでなく、アメリカのエリアマネージャーとしても活躍した。団体設立にあたって何よりしなくてはならなかったのは会社を作ることであった。それには経営者となるべき人物が必要である。船木・鈴木ともに心に決めた人物がいた。その人物こそ尾崎允実社長である
また、トレーナー兼レフェリーに廣戸聡一、リングドクターとして上笹功が就任。そして4月頃より全日本女子プロレスの道場を借りて練習が出来ることになる。パンクラスの道場開きまでの期間ではあったが、選手達にとっては重要なことであった。
団体設立の準備は着々と整い、そして遂に5月16日、「パンクラス」設立の日を迎えることになる・・・。



1992年
12.21 :  藤原組解散
1993年
01.16 :  Wシャムロック、藤原組で最後のファイト
01.31 :  トーワ杯カラテ・ジャパン・オープントーナメントに柳澤、稲垣が出場
2月上旬 :  船木・鈴木、Wシャムロック宅、カール・ゴッチ氏宅訪問
02.19 :  Wシャムロック、マイアミで行われた『SHOOT FIGHTING』に出場
4月 :  全日本女子プロレス道場での合同練習開始


第2回『トーワ杯カラテ・ジャパン・オープントーナメント』
1993年1月31日、第2回『トーワ杯カラテ・ジャパン・オープントーナメント』(東京武道館)に、当時は船木派と呼ばれていた柳澤龍志と、まだ練習生であった稲垣一成(現・克臣)が出場した。当時藤原組に残った石川選手が出場するということで、藤原組解散後、初めて両派が顔を合わせるということもあり話題を集めた。柳澤はベスト8入賞、稲垣は3回戦敗退に終わった。また柳澤は敢闘賞を受賞した。

■戦績
Aブロック2回戦:○稲垣一成(2-0判定)吉山和宏×
Aブロック3回戦:○金泰泳(KO)稲垣一成×

Bブロック2回戦:○柳澤龍志(TKO)石川義彦×
Bブロック3回戦:○柳澤龍志(TKO)石原聖一×
Bブロック4回戦:○柳澤龍志(3-0判定)平岡功光×
Bブロック準々決勝:○村上竜司(3-0判定)柳澤龍志×

尾崎允実
尾崎社長と船木・鈴木は新生UWFの時からの付き合いである。尾崎社長はプロダクション(株式会社レッシング)の代表でもあり、二人からパンクラスの話しを聞いて、それは素晴らしいことだし是非協力したいと思ったが、その会社の社長を務めるとなると話しは別。当然断ったが、船木・鈴木は「他に適任者はいない」「俺たちを見捨てるんですか」と食い下がる。困った尾崎社長は断る理由としてプロダクションのスタッフに相談して一人でも反対されたら断ることにしたが、これに全員が賛成。それどころか「ぜひやるべきだ」と言われ断る理由がなくなり引き受けることになったようである。10周年を迎えた現在も“社長”としてパンクラスのさらなる飛躍を目指して活躍している。

廣戸聡一
廣戸レフェリーと船木は、船木が新日本プロレスに在籍時からの付き合いであり、当時は船木のスパーリングパートナーを務めたこともある。その後しばらく接点がなかったが、パンクラス設立前に再会し、船木の考えに共鳴しトレーナーとして、また選手のケアの部分で協力する事になった。だが、当時レフェリーがまだ決まっていなかった。レフェリーというのは誰にでも務まるような仕事ではない。格闘技という危険な競技である以上、レフェリーの判断によっては大きな怪我や選手生命にも関わる。当時、彼以外には考えられなかったのである。船木は言った。「廣戸さん。俺、良い事考えましたよ。廣戸さんがレフェリーやればいいんですよ。」なかば強引にレフェリーをやる形になったが、実際本人も自分がやるしかないと思っていたと思われる。やはり断る理由がなかったのである。10周年を迎えた現在、“パンクラス審判部長”として、また、選手のトレーナー兼メディカルアドバイザーとして活躍する。

上笹功
上笹ドクターとパンクラス旗揚げメンバーとは藤原組の頃からの付き合いで、「出来る事があれば協力する」と言っていた。そこで当然ながらパンクラス旗揚げにあたり、リングドクターとして参加する事になる。旗揚げ戦からしばらくは彼がメインリングドクターとして活躍するが、最近はほとんど会場で見かけない。理由は「友人でもある選手達が怪我するのを見るのが怖いから」と言う。そんな上笹ドクターは、旗揚げ当初からリングドクターの座を譲るべく策を施している。現在メインリングドクターを務める田中弦ドクターを旗揚げ戦では観客として招待した。それがその後関係者席に座らされるようになり、いつの間にかリングドクターになっていたという。まんまとリングドクターから退くことに成功した上笹ドクターではあるが、10周年を迎えた現在、ビデオ等でこっそりパンクラスを観ているらしい。

全日本女子プロレスの道場
藤原組解散後、道場のない彼らは練習場として川原や公園などを練習場としていた。高橋は一人千葉の実家に戻り、古巣の日体大レスリング部で練習を行っていた。そんな彼らには1日でも早く合同で練習できる道場が必要であった。そんな折、尾崎社長と当時全日本女子プロレスの広報だった小川氏が知り合いだったことから尾崎社長が相談してみると、練習場所に全日本女子プロレスの道場を貸してもらえることになった。4月から6月21日の道場開きまでこの全日本女子プロレスの道場で練習を行った。この合同練習を選手達は本当に喜んだ。特に喜んだのは、一人みんなと離れて練習をしていた高橋であった。