わかりました。それでは翌年、1999年の「BREAKTHROUGH TOUR」にいきます。この年の印象的な出来事と言えば、まずは菊田早苗選手の入団があります。
北岡悟:そうですね。菊田選手の入団と、美濃輪(育久)さんの台頭っていう。そうなるでしょうね。美濃輪さんが勝ち上がっていった頃ですよね。

この年まで、北岡選手は1観客として外からパンクラスをご覧になってましたよね。
北岡悟:そうですね。ただ、この年になると、僕、前年より柔術でも強くなってたんで。もっと寝技も強くなってたんで、より見る目も厳しくなってるんですけど。まぁ、美濃輪さんの台頭もあるんですけど、菊田さんの入団っていうのは、当時の時点でもう菊田さんとは知り合いだったんで、知り合いの人が(パンクラスに)上がるっていうことで、それも菊田さんがメチャメチャ強いってことを僕は知ってたので、入団したら勝ち続けていくだろうなって思ってましたね。高瀬(大樹)さんとかも(パンクラスに)上がってますよね。

7月の『ネオブラッド・トーナメント』ですよね。
北岡悟:『ネオブラ』もそうだし、最初石井(大輔)さんとパンクラチオンマッチをやってるんですよね(4月・横浜文化体育館)。菊田さんも高瀬さんも二人とも圧倒的に強い人なので、そういう意味で憧れるリングであることに全然変わりはなかったんですけど、でも何か親近感とかっていうのが沸いたりしましたね。山崎(進)選手とかも出たりしてましたよね(9月・東京ベイNKホール)。まぁ、そういう日本人の他流派の選手がどんどん上がるようになってきて、その後の、日本人のいろんな他流派の選手が上がるリングっていう形の原型みたいな感じなんですけど。でもこの時は、日本人選手の中でも菊田さんとか高瀬さんとか、すごいレベルの高い選手なので。その〜、(パンクラスの)敷居の高さとかは全然変わってなかったと思いますけどね。まぁ、そういう中で美濃輪さんが強かったっていうのは、ファンの中で結構“救い”だったんじゃないですか。

この1999年は、パンクラス“掌底”時代の最後の年でもありますよね。
北岡悟:あぁ、そうですね。


幕を閉じた試合が、年末の横浜(文化体育館)での鈴木選手と菊田選手の初対戦でした。
北岡悟:そうでしたね・・・。ん〜(エベンゼール・フォンテス・)ブラガとかの試合(4月・横浜文化体育館)もすごい印象にありますけどね。

この年には結構頻繁にパンクラチオンマッチが行われてましたけど、その中でどの試合が1番印象に残ってます?
北岡悟:ん〜・・・ブラガの試合・・・。ぐらいですかね。以外に(笑)。柳澤さんが豪快に負けたのとかも印象に残ってるって言えば残ってますけど。VSボブ・スタインズ戦(11月・大阪なみはやドーム)ですね。

パンチで倒されたんですよね。
北岡悟:そうですね〜。まぁ、悲しかったのはこの年のNKホールの対戦カードは良いカードだったのに、お客さんの入りがちょっと寂しかったのが悲しかったですよね。ファンとしても。

近藤選手と國奥(麒樹真)選手のタイトルマッチがあった東京ベイNKホール(9月)?
北岡悟:他にも船木さんと菊田さんのパンクラチオンマッチがあって。柳澤さんVS小路(晃)選手とかもあって。山崎(進)選手が上がって、美濃輪さんVSシュルトがあって。第1試合が高橋さんと渋谷(修身)さんですからね。なかなか豪華なカードだったのに(苦笑)、ちょっとお客さんの入りが良くなかったじゃないですか。悲しいですよね(苦笑)。ん〜、ブラガと船木さんの試合は、結局オントップっていう部分で負けちゃって。上になられてっていう内容で。ヒクソン(・グレイシー)はこの試合を見て船木さんとの試合を受けたっていう噂もありましたよね。レスリングがそんなに強くないって判断したからっていう。でも僕は船木さんを擁護するつもりもないですけど、船木さんはちゃんと強さを見せた内容だったと思います。この試合で船木さんが別に弱いとは思わないと思うんですけど。まぁ、比べられるものができちゃってきてた時だから、厳しい状況ではあったと思いますね。現実に、船木さんが苦戦したブラガは、2、3ヶ月後に『PRIDE』のリングで桜庭選手に一本負けしちゃってますし。そんな感じですかね。美濃輪さんに関しては、もちろん鈴木さんがいろいろ教えたこととかもあったと思いますけど、やっぱりアマチュアの頃に培ってきたものも大きかったと思うんですよ。で、パンクラスに入って2年間でやっと練習できる環境とかも安定してきたり、良いエッセンスとかももらったりして。それで良い感じになってきたから、結果が出始めたんではないかなと思いますね。やっぱりアマチュアで培ってきた経験とかっていうのはそれだけ有効なので、それもあると思うんですよね。そういう意味で言えば、美濃輪さんも完全な生粋のアレじゃなくて、この年、外から入団した菊田さんや、他流派だった小路選手や高瀬さんと同じような部分もあるということですよね。で、この年に最後に、鈴木さんが菊田さんに負けてしまうという。それと合わせて、掌底も終わってしまったっていう。外から観てて、やっぱり僕は掌底を続けてほしかったなって思いますけどね(苦笑)。(グローブ制になることが)この年の9月頃に発表になったと思いますけど、グローブだと「絶対無差別って無理じゃん」ってやっぱり思うので。無差別とかやってみたいって当時思ってたので、そのへんは悲しかったですけど。まぁ、きっとグローブにしたら、いずれは総合格闘技の主流のルールに変わっていくんじゃないかなって思ってましたね。

この年の年末に、船木VSヒクソン戦の発表があったんですけど、それを聞いた時はいかがでした?当時柔術をやっていた北岡選手的には。
北岡悟:あ〜っ、そうですね・・・。まぁ、柔術をやってましたけど、別にヒクソン・グレイシーのファンではなかったので。柔術=グレイシーのファンみたいなところが強いとは思いますけど、僕はパンクラスがすごい好きだったので。ファンだったんで。まぁ、厳しいかも知れないけど、船木さんに勝ってほしいなっていう、素直な気持ちで思ってましたね。何か勝っちゃうんじゃないかなって思ってましたし。何となくですけど。所謂、“信じてる”ってヤツだったんでしょうね(笑)。あんまり僕、信じてるっていうのは好きじゃないんですけど(苦笑)。あぁ、本当にやっちゃうんだって、怖さとか、複雑な気持ちがありましたね。もし、ヒクソンが負けたら負けたで、柔術関係者がひょっとしたら路頭に迷っちゃうっていうのもあったので複雑ですよね。

この年の北岡選手は、柔術ではどういう活動をしてました?
北岡悟:僕はこの年、7月にブラジルに行きましたね。あと、海外で試合をしたりしました。1月にマイアミで『パンナム』って大会に出て。で、6月にはハワイで『ハワイ州選手権』っていうのに出て、7月はブラジルの『ムンジアル』って大会に出たんですけど。まぁ、全部青帯なんですけど、外国人選手とばっかり試合をして。ほとんどブラジル人ばっかりだったんですけど。すごい良い経験ができたと思います。あんまり勝てなかったんですよ、海外の試合では。だけど、すごい寝技に関しては強くなりましたね。だからこの時でもう、結構、パンクラスに行っても寝技だったら負けないよって思ってましたね(笑)。今思えば傲慢なことですけど(笑)。

わかりました。では、1999年を締め括っていただきましょう。この年は結構パンクラスの中でも大きな動きがあった年だと思いますが、パンクラスにとって1999年はどういう年だったんでしょうか?
北岡悟:ん〜、どうだろう?難しいですよね・・・。日本人選手の新たな流れっていうのができた年ですよね。

他団体の選手がたくさんパンクラスのリングに上がってきたと。
北岡悟:ハイ。船木さんや鈴木さんをはじめとする、プロレスからきたパンクラスの流れとは違う日本人選手の流れっていうのが出てきたと思いますね。美濃輪さんもそうだし、菊田さんもそうだし。近藤さんが確かにチャンピオンではあったんですけど、それだけではない流れっていうのがありますよね。