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練習と言うと、コツコツやるとか、飛躍的に何か新しいものを求める、というような事が昨今言われるし、優れた人に習うという事が練習にとって凄く良い事だというのもあります。ですが、日本のスポーツ界に限らず、私は練習に対しての問題点が2つ出てきてしまったように思います。1つは、練習という事を知らず知らずの内に、習うという風に、“教えてもらえるんでしょ?”という、習うというイメージ。そういう概念で取り易くなってしまった事です。それがまず、凄く気になる部分としてあります。それから、個人のオリジナリティーとか、個性という言葉に騙されて、自分の好きなものをかいつまんでやる、情報量が今多いですから、自分がこれをやったら得なんじゃないかというもの、そんなものに騙されて、勝手に色んな物をかいつまんで、物事を、練習を始めてしまう。そういう人が凄く多いんです。この2つが凄く問題だと思います。練習というのは、“何の為の練習なのか?”という大前提があります。まず自分がどうなりたいか?という目標、イメージ、1つそういうものが根差していて、その目標というのは、今迄ある事が、これしか出来なかったのが、練習をする事によってこんなに出来るようになりましたという、局所的な、小さなターゲットという形で存在するものと、それからそれが出来てきて、その小さなターゲットをいくつもいくつも獲得したお陰で、何かの自分の目指していたタイトルを手に入れる、誰も出来なかった事が出来るようになる、という様な、全体的な目標というものと、2つあると思います。そのいずれもが、結構漠然としていたり、そういうものが多いです。
もっと言うと、イメージトレーニングという言葉も含めて、タイトルを、自分の目指したものを勝ち取って、満足する自分を思い描いてイメージトレーニングをする人が凄く多いです。それは、単に幻想を描いていたり、夢を見ているという話だけで、それはイメージトレーニングでもなければ、何でもないです。今言った2つのいずれもが、何から発祥しているのかと言ったら、効率良くやりたい、効率主義というのが、最も日本の練習、もしくはそういうトレーニングというものを、歪曲化してしまっているものの正体だと思っています。速ければ良い、簡単なら良い、そういうものに騙されてしまっています。人の出来ない事を勝ち得たり、誰もが憧れるタイトルを手に入れたりという事は、効率良く、簡単になんか絶対に出来ないです!人類で自分以外、全部敵になるわけですから、それを考えたら、そんなに効率良く求める、という事をやってしまってはいけません。“効率”というのは、ある意味力を付けた人が、その力を発揮するのに、無駄な時間があったりするわけです。その時間を省略して、必要な部分だけに集中するという事で、効率というものは使えますが、楽をする、という事ではありません。効率良く物事を完璧に行うという事は、実際にその途中の部分をはしょってやらなかったとしても、やった事と同じ精神状態で物事を始められる、という事です。逆に言うと、スタートからいきなり、コツコル始められません。途中からいきなりエネルギーの高い状態で入っていかなければならないし、正確なものをやらなけれればいけないわけです。ラフスケッチもしないで、いきなりペン影をしていくようなものなので、それはもの凄く高い技法を持った人でなければ、効率良く、パッと描けないわけです。
普通の人は、クロッキーから始めて、アウトデッサンをして、それから細かいディテールデッサンに入って、全体のバランスを見て、最終的にペンを入れていくのであればわかります。それをやる事は無駄かどうか?非効率的なのかどうか?と言ったら、私はそうでは無いと思います。そういう意味の、まず一般社会の毒された効率主義というものを、自分が追い求めている世界の中に入れる必要は私は無いと思うし、入れてはいけないと思っています。最終的には技術の世界で、もしも、私の様に自分を磨こうとする人がいるのであれば、必要最小限の事をしていきながら、どんどん技を磨いていくと、もっともっとシンプルに成っていくんです。ですから1番始めに手がけなければいけない基本的な事、それはどんな事でも、凄く単純な事をやらされると思います。それに色々なものを肉付けして、大きくさせて技術になると思ったら、実は大間違いです。1番初めにやった、技術というもの、基本というものを、どんどん真正直にやっていく事に、研ぎ澄まされていきながら、今言った様に、途中はやらなくてもよくなるような事、それから、それをやらない方が、より正確な技術に繋がっていくような所まで自分が高まっていった時に、初めに習った物凄くシンプルなものよりも、もっと単純化されたシンプルなものが出来上がって来ます。これが“神業”と言われるものです。それが一般の人には中々見て取れません。そこまでいくのに、何が変わらなければいけないのか?己が変わらなければいけません。効率の良い事をして、“俺はこういうタイプだからさ〜、こういう風な事で学んでやるんだ〜”というような奴に、一流になった奴は1人もいません!ある程度流れに乗って行っても、必ず低いレベルでまとまってしまいます。
ですから、私がたまにパンクラシストに苦言を呈します。きつい事を言ったりします。でもそれは、彼等が上がって来ようとする所が高かったり、崇高であったり、そして今持っている技術が高いから、それをもっと研ぎ澄ます為にはこうしなければならないんだ、という事なんです。そういう意味合いの中で、自分自身が自分を削っていくという、切磋琢磨していくという事は、他人と比べるという事ではなくて、本当は現実の自分と理想の自分を重ね合わせて、そして切磋琢磨させる事が1番の近道だと思います。それを嫌な言い方をすればストイックという言葉で片づけてしまう人がいますが、そうではありません。これは静かなる情熱で自分が掻き立てられるわけであって、私は“ストイック”とは違う意味合いを持っていると思います。横文字で何でも言えば格好良くなると思ったら大間違いです。日本人なんだから、日本人の言葉として理解しないと、薄っぺらい物事の判断しか出来なくなるから、日本語を大切に考えた方が良いですし、それも練習です。そして練習を具体的に言うと、取り敢えず何かやってみる事です。練習は、失敗をして上手くいかない事を見付ける為のものです。それを効率良くやらせようとした教育論だけで、こうやったら上手くいくよ、こうやったら上手くいくよというリピートをしていった時に、上手くいかない事が駄目な様に思ってしまうわけです。そうではありません。上手くいく事の方が珍しい事です。
上手くいかない人間がトライをして、そして自分が一皮剥けていく事、上昇していく事によって、出来なかった事が、確立の高い形で出来るように成っていく、出来る事の発見なんです。出来ない事が当たり前なので、何故出来ないのか?という事を見付けていく事、そこにまた現代の歪みがあって、褒めれば人間が育つと思ってしまっている教育者がたくさんいます。褒めてかばっている内に、甘やかされます。それによって、まず言い訳の出来る範疇を作らせてしまいます。これが1番いけない事です。社会が悪い、家庭が悪い、学校が悪い、何かのせいにして個人を守ってやろうとするかも知れないけど、やった奴は個人なので、個人は責められるべきです。そして反省を促されて、自分から自分を戒めて、やり直していく、リセットしていくというところに、人間は知恵というものと教育というものが受けられているという事なので、他人にかばわれて、言い逃れをさせられて、それで甘やかされている奴にろくな者は育ちません。そういう意味で、まず練習をするならば、自分がどうなりたいかというイメージを持って、トライしていく事。そうしたら、そのイメージと現実のギャップというものを、嫌と言う程思い知らされます。思い知らされた時に人間は冷静になって、素直になるのです。そして自分を甘やかさないで、その結果を見た時に、ようやく人は初めて考え、真剣に自分の事を考える事になります。そして一生懸命に考えた時に、色んな所からの、脳みその全部を使って、肉体の全てを使って、ようやくそこで考えた上に学ぶ事が出来ます。指導者という者からヒントを受ける事はあるけれども、効率良く自分を高めたいのであれば、やはり自分で学ぼうとする事です。その為に、人に自分はどうなんですか?という事を冷静で素直に人に聞いて、人から注意をされたり、人から苦言を呈された時に、“でも”とか、“そうは言うんですけど”、という事ではなくて、自分ではこうしたつもりなのに、まだそう言われてしまうのか、という所で、こうなっていると思った、自分ではそうやっているつもりだったけれども、まだ出来ていないのだったら、何からやったら良いんですか?どうやったら自分は貴方の言っている様に直るんだろう?という事を食い下がって質問して学ぼうとする姿勢、それが実は1番の練習の、第一歩です。そして結局人は、自分が立てたイメージ通りにいく為に、自分が感じた素直な今の自分とのギャップを埋める為の方法を学び取って、考えて、そしたら次は、その方法論を具体的に行動に起こす事です。
今もまた甘やかされた子は、やってちょっと駄目だったら、すぐ止めてしまいます。そうではありません。出来ないぐらい自分は劣っている人間だし、未熟なんです。だから言われた事が出来ないんです。出来ない事を認めていないから、“そんなのやったってさ、俺には合わないよ”という風になるんです。確かに指導者の中にも、教え方が未熟なのに「いくら教えてもあいつは出来ない」と言ってしまう人がいます。でもやはりここで言うと、色んなもので感じ取って、理想を持ってそれを感じ取って、そして考えて学んで実行する。そしてそれを継続する。これを1つまとめた事を、私は<練習/稽古>と呼んでいます。それのどれかが抜けても、全くもって駄目なものに成っていってしまいます。中途半端なものに成ってしまいます。そして、それが一つワンクール出来たら、また実は一段階上になったら、一段階上になった時点での、また現実とイメージの差というものが生まれてきます。“これだけ何年もやってきて、これだけ出来た俺なのに、出来ないのはおかしいよ”ではなくて、“こんなにやっても、まだ俺は出来ない事があるんだな”と、また素直に認められる。そしてそれに対処していける人、それを延々と繰り返していく事。それが名人、達人になっても、常に勉強なんです。色んな役職に就いた、色んなタイトルを取った、またアーティストは、「いやいや、まだ生きている以上、私は常に勉強です」という事を、色々な国々の方がおっしゃいますが、それが本当の姿だと思います。結構、これとこれとこれが出来れば、これが出来たという資格試験とか、学校の試験ではないので、現実の社会では常に現実の社会が生き物として生きています。進化しています。だからそれに併せて自分が進化しようとするのであれば、常に考えて、常に行動して、常に冷静に分析して、分析したものを常に冷静に素直に答えられる、認める事です。いわゆる、性格の良い奴がきちんと練習をした時に、1番強い男になります。それがパンクラシストやパンクラスのリングに上がっている、上がって来る、タイトリストの姿を見てもらえれば解ります。それが名選手に学ぶ1番の事です。それがまず<練習/稽古>というものです。
効率良く物事を進歩する為に“いわゆるこれが基本だから”という言葉があります。それは最も大切な事を基本と言うのですが、これは1つしかありません。どんなジャンルのものでも、それは性格的なものとか、トライする、目指すのには、色んなものがあります。でも、基本的に“何が1番大切なのですか?”と言ったら、その個人が健康的で前向きである事です。今、言った要素です。そういう人間的な要素が満たされていると言う事が、まず基本です。肉体的/精神的/社会的な健全さ、これがWHOがもっていうところの、健康の定義です。それを持った人、それが<基本>です。それを、そうやってコツコツとやっていく事、それが練習の賜物である事、目指す位置付けである事です。一般的にこれが野球の基本ですとか、これがまずギターの基本ですとか、というのはジャンル別に見たテクニックの事であって、それよりも前に人間がやる以上、人間の基本を身に付けていく事。私はこれがオリンピックとか、世界レベルのスポーツのフィールドに、なんなりにいた時に、いわゆるジェントルマンである事とか、大人である事、コメント1つが、とてもみっともない事にならない様に、ある部分から人間的に育っていく選手が凄く多いです。たまにはいつまでたっても障害事件を起こしてたり、薬物に手を出すような名選手もいますが、そう言う事は度外視して、それは社会的な現象です。それは抜いておきます。まず、人間の基本的な、人間界の基本というものをしっかりと身に付けるという事、それから自分の目指すジャンル別のテクニックを身に付ける事です。これが練習の最大で、しかも最もシンプルなあり方だと思います。それを見失わない様に、コツコツやっていく事、コツコツやっていくうちに、本当に必要ではないもの、今の自分に必要でないもの、必要ではない練習を削除する事で楽になるのではなくて、誰も到達しなかった、新しい練習方法を手に入れるという事が、常に上達する人の常なんです。私も自分の技術を絶対に鵜呑みにもしないし、一番自分のテクニックを信頼していないのも私自身です。だから日々、自分の持っている全てを自分の弟子達に、自分の技術、トレーナーの技術を弟子達、選手達に出し惜しみしないことが平気で出来るのは、それよりも良いものをずっと捜し続けているという事。そしてそれを手に入れていく事が、私が常に進化をしようとしている、私も練習をしているという事です。
一緒に練習をしていきましょう。
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